人のいない隙を見て、スタジオに忍び込む。
目的はスタジオに一台だけあるパソコン。起動し、ソフトを立ち上げ、履歴をこっそりチェックする。
ふぅん、次はこの子があの曲を、あの人がこの曲を歌うんだ。またいっぱい溜めたなぁ。
マスターは一人しかいないのに、よくこれだけいっぺんにできるものだと思う。
…そこに、あたしの名前も入れてくれたらいいのに。
―――――――――――――――――――【 solo 】――――――――――――――――――――
「ベニちゃん?何してるの」
ふいに声をかけられ、幸音ベニは飛び上がってしまった。
慌ててソフトを終了し、画面を隠しつつ振り向く。そこには、モノトーンの長身男性がぼんやりと立っていた。
「なんだ、えーいちさんかぁ。びっくりさせないでよ、もう」
「なんだってなんだい」
眉を八の字にして、轟栄一はそう返した。手探りでパソコンをシャットダウンさせ、黒画面になったのを確認したベニはツンとした顔になる。
「入るときはノックくらいしてくださいよ。たしなみですよぉ、た・し・な・み」
「ベニちゃんだって、入るときしてなかったじゃない」
そこから見られてたのか。あう、とツン顔にヒビが入る。
そのサマを見ていた栄一はふふっと笑い、そうだ。と思い出したように声を上げた。
「聞こうと思って声をかけたんだけどね。ベニちゃん、一緒に買出しに行かない?」
「買出し?なんであたしが、えーいちさんと?」
「みんな忙しそうでね。いろいろ消耗品も切らしてるから、ついでにお散歩とか」
「…まぁ、いいけれど」
「ありがとう。女の子と歩くの、久しぶりだ」
爽やかにはにかむ顔に、ベニは「このオッサン…」とこぼした。
「KAITO用の徳用バケツアイスが3つくらい、モモ姉さんの金平糖。あと何が要るんだっけ?」
「みたらしいぬだんごと、先日魔改造されてた傘のスペア。っていうかアレ誰がやったの」
「え、本人じゃないの?」
「技術の無駄使いだなぁ…」
モモに渡された買い物メモを手に、二人はゆっくりと畑を突っ切る道路を歩いていた。
時折やってくる車に気をつけながら、並んで歩く二人はどちらかというと親子のようだった。
「えーいちさんは、いいの?いつもおしるこ無いって騒いでるけど」
「騒いだ覚えは無いけど…この前のセールで買いだめしたからいいんだ。冬は越せるよ」
「冬が越せる程度」の量が想像できなかったベニは、とりあえず深く突っ込まないことにした。
タク君用のそうめんは、いつもマスターの親戚が暑中見舞いに大量に送り込んでくるので事足りるだろう。
あと何が要るだろうか。マヨネーズはまだ蓄えがあるし、鰯…にぼしでごまかすか。
ベニが考え込んでいるのを覗き見て、栄一は「なんかさぁ」と声をかけた。
「ベニちゃんって、見かけによらずしっかりしてるよね」
「どういう意味ですか?」
キッと睨みあげるベニ。へらっと笑う栄一を一瞥し、さらに片眉を吊り上げる。
「案外、家のこととか把握してるし。そのわりにはいろいろとノータッチだけど。いい嫁さんになれる」
「そのセクハラ発言さえなかったら、えーいちさんだってかっこいいんですけどねえ」
「え?」
「なんでもないですぅ」
スタタタ、と足を速めてベニは先に進んでしまった。
待ってよー、と情けない声を出して、それに栄一が倣う形になった。
家に帰ってきたのは既に陽が沈んだ頃だった。
軽いものをまとめた袋をベニが手に提げ、栄一はバケツアイス4つをプルプルしながら持っていた。
この時期、手で持った程度では溶けないアイスをどっさりとテーブルにおろし、はーふーと息をかけながら栄一がぼやいた。
「この量で、1週間持たないんだからなぁ…自分で買いに行ってほしいよ、全く」
「これくらいでぼやかないでほしいですね、男なんですから」
「ベニちゃん厳しいー」
「えーいちさんが甘いんです」
袋の中身を仕分けし、戸棚になおしながらベニが睨みあげた。
そこへ、エプロン姿のモンが姿を現す。今日の夕飯は彼の担当らしい。
「おー、おかえり。塩化ナトリウム買ってきてくれた?」
「食塩って言ってください。伯方の塩ですよね。はいどうぞ」
戸棚になおそうとして手に持っていた袋を、そのまま手渡す。さんきゅー、とお玉を振りながらモンが台所へ帰っていった。
「…母さんっぽいよなぁ」
ぼそっとつぶやく栄一に、ベニが低音で返す。
「…えーいちさん、用がないなら部屋に戻ってください」
「誰が、とは言ってないけれど?」
そうおどけてみせたが、その長い髪で絞め殺される前に、栄一はすたこらとその場を去った。
夕飯はカレーだった。
どのスパイスが足りないだのとソラがぼやいたが、成分的に合ってるはずだとモンは譲らず。
ちびっこたちはそれぞれお代わりし、ヘタは3杯目を無理やり掻っ込んでうんうんと唸り。
いつもどおりの食卓。
ただ、一席だけ、空白のまま。ベニだけがその場に来ていなかった。
持ち主の居ない椅子を見て、ほんの少し早めに食べ終わった栄一は「ごちそうさま」とつぶやいて、皿を手に席を立った。
ヘッドセットから流れてくる旋律に、聞こえないように音を重ねる。
あたしだって歌えるわ。もう何回も聞いて、覚えてしまったし。
あぁ、この曲はデュエットなんだ。あの人とこの人での。いいなぁ。
どっちのパートも覚えてしまったから、いつ代わったって構わないのよ、マスター。
…願わくば、あの人と、これを…
「なぁにしてるの、ベニちゃん」
「ぎゃあ!」
女の子らしからぬ声を上げて、ベニはついヘッドセットを落としてしまった。
床に落下するヘッドセットにつられ、引っこ抜けるジャック。途端に、部屋に音が広がっていく。
パソコンの明かりしかついていないスタジオ。その光を背に、明らかに動揺した顔のベニを、ほの暗い顔で栄一が見ていた。
昼間とあまり変わらない対峙。ただ、殆ど真っ暗なスタジオと、おどけた雰囲気のない栄一に、ベニの心臓はばくばくしていた。
「…な、なんなんですかもう…驚かさないでください…」
「………」
深呼吸して、落としたヘッドセットを拾い上げる。ジャックを入れなおし、部屋に静寂が戻った。平静を装ったベニが振り向きなおすと、まだ栄一は沈黙していた。
「…何かいいたいことあるんなら、言ってくださいよ」
「…明かりくらい、つけようよ」
「見つかったら嫌ですから、嫌です」
「ご飯も。せっかくみんなと食べてるのに」
「勝手でしょう。誰もあたしがいないのなんか気にしませんよ」
「歌わせてもらったこともないから?」
その冷たい声に、ベニは言葉を詰まらせた。
確かに、そうだ。この家に来てから、半年は経つのに一曲だって歌わせてもらったことはない。
マスターはいつも他の子にかまってばっかり。私を迎えてくれたとき、あんなに嬉しそうだったのに。
…嘘、だったのだろうか。あれは。
「…そうよ」
栄一のそれと同じくらい冷たい、抑揚のない声が零れた。
「使う気なんかない子が、一人くらい居なくなったって気にしないわよ。どうせ、こんなの練習したって、どうにもなったりしないんだから!」
せっかく挿し込んだジャックを力任せに引き抜く。パソコンのスピーカーから溢れてきたのは、濁流のような荒々しい音の波だった。
まるでその流れをせき止めるように仁王立ちしているベニに、栄一の口は全く開く気配が無い。
その様を見て、ベニは長い前髪をビロードのように、うつむいて表情を隠してしまった。
「どうしてあたし、ここにいるんだろう。歌いたい、歌いたいのに…」
ちゃんとすれば、あたしだって歌えるもの。あの子よりずっと綺麗に、あの人よりずっと高く。
なのに、どうして、こんな暗いスタジオで、まるで悪いことでもしてるようにこっそりと練習して。
ばかみたいだ。ほんとうに、ばかみたいだ。
ぼたっ、と厭な音を出して床に涙が落ちた。なんでこんなに大きい粒なのばかじゃないの、と顔を歪めても、次から次へと涙は零れていってしまう。
やめてよ、目の前であの人が見てるのに。止まってよ、これじゃあまりにも情けないわよ。
頬を流れていく冷たさを掬おうとして、ベニは手を上げた。
それを合図にしたかのように、僅かに視界の端にあった光が消える。
代わりにベニに与えられたのは、もふっとしたコートの暖かさ。
「!?」
視界がまっくらになった上に、動けなくなってベニは一瞬でパニックに陥ってしまった。
慌ててじたばたともがくと、静かに。と優しい声が上から降り注ぐ。
「…なんて言ったらいいか、わかんなかったから」
そう聞こえたのは、いつもどおりのへらりとした音。温かくて、あまったるい声。
聞くだけで安心する、気が付いたらいつもそこに居る、あの人の。
「せめて、ここで好きなだけ泣いていいから。誰も見ないよ、ほら」
ベニの頭に、こつんと硬いものが当たった。あたしはアゴ乗せじゃないのよ、ととっさに言いたかったけれど、
無意識のままにシャツを掴んで、それに顔をうずめて泣いてしまっていた。
もしかしたら、あたしはずっと歌わせてもらえないのかもしれない。
でも、それでもいいかもしれない、と少しだけ思ってしまった。
腹を立てて、そのたびにこの人の胸で泣けるなら。
ここは、あたしだけの、彼に聞かせるためだけの特別なステージだから。
あたしの歌声は、彼にだけあげよう。
End.